ちょうどいいがわからない
100か0で生きてきた。
いや、そんなかっこいいものじゃない。
ギリギリでいつも生きていたいわけじゃない。バンデエジ。赤西。
ああ本当に「ちょうどいい」がわからないのだ。
例えばお酒。
飲むなら記憶を無くすまでのむ。飲まないから飲まないでよい。
ちょうどよくほろ酔うことができないのだ。
というかそもそもある程度飲んでも酔わない。
あるとき一気にガクッと来るのだ。
世の中の女の子がやる『酔っちゃった~』などできたためしはない。
ちょうどよく酔い、周囲からは酔ったら朗らかなかわいい人気者になるチャンスなどない。
酔ってしまった私はもう殺すか殺されるかの瀬戸際。全員と仁義なき戦い広島死闘編なのですよ。
酒を飲むかお前が飲まれるか。
例えば恋愛。
好きになるなら、未来永劫末代まで好きになる自信がある。好きになれなければ、どれだけ好かれようとそいつを生んだ先祖を呪ってしまう。
ちょうどよく人を好きになることもできないのだ。
というかあまり人を好きになっていない。
100好きになる人でなければ一緒にいても不幸と思ってしまう節がある。
世の中の女の子がやる、『女の子は追われるほうが幸せ~』など到底できないのさ。
判断基準が俺の好意が100か0かなのだから。
でも私はそんなぶ器用な女たちが好きさ。(cv.かたせ梨乃@肉体の門)
そっちのほうが人間ぽいじゃん。
私は人間の根底には恥とか呪いとか嫉妬とか妬みとか嫌悪とか恨みとか嫌な感情をもっているはずだと思ってる。
だからそれを感じさせない人には全く魅力を感じないというか、嘘じゃんと思ってしまう。
不器用でうまく隠せていない女たちを見るといとおしくて自己投影して愛着を持ってしまうのさ。
初めから愛されることを受諾している姫タイプの女とは真逆の反逆的な女たちよ、俺は大好きさ。
駆け引き、戦略、そんなものができないでこちとら四半世紀生きて来やした。
しかし、昭和70年代の東映映画ではないので不器用は何の得にもなりません。
私以下不器用な女たちよ、実際不器用な奴は社会的に死んでしまうのですよ。
大人の対応、社交辞令、いい塩梅。
そのような対応ができてこそ21世紀を生きる僕らなのです。
誰もが傷つかない社会を!ウーマンリブ!ジェンダーフリー!ダイバーシティ!
なんてカタカナ語が並ぶ僕らの生きる時代。
分かりやすかった寅さんの時代はもう終わり、分かりにくい細分化されたそれぞれの幸せがある現代。
誰もが生きやすい世界は必要。
さて、そこにおもしろはあるのか。
それを見つけていきたい。